2013年11月26日
杉玉~3分クッキング♪
みなさんこんにちは。
新酒ができ上がったことを告げる杉玉。
本日、河嶋杜氏自ら杉玉の付け替えを行いました
右が2012年の冬につけられたもの。左がこれから付けるもの。
こうみると可愛いですね
本日はそんな杉玉の付け替え方をご紹介したいと思います
①去年の杉玉を外します。
※乾燥した杉は刺さると痛いため、顔に当たらないよう気を付けてください。
②杉玉につく紐を取ります。
※杜氏の指先がきれいすぎて白飛びしてしまうことに気を付けながら撮影を行ってください。
③新しい杉玉の紐を付けます。
※特別な結び方があります。企業秘密・・・と言いたいところですが、
早すぎて見きれなかったためご説明が出来ないだけですm(_ _)m
④よいしょ!
※見た目によらずなかなかの重量があります。
足腰をしっかり鍛えてから持ち上げてください。
⑤もとあった場所にひっかけます。
⑥ひっかけます。
⑦ひっかかっていることを確認します。
⑧以上です!でき上がり
杉玉は新酒が出来たお知らせ。
茶色く変化していくとお酒がだんだんと熟成されていると言う目印になります
昔々、杜氏さんが丹波より中野に来てくださっていた頃は、
春前に杉玉が茶色くなりかけているのを見て、
「もうすぐ家に帰るんだなぁ...」としみじみされていたそうです。。。
普段は飾りのようにさりげなく、さりげなく、吊り下げられている杉玉ですが、
見る人によっていろんな想いを伝えてくれる、大きな存在なんだなぁ。。。
と感じました
新酒ができ上がったことを告げる杉玉。
本日、河嶋杜氏自ら杉玉の付け替えを行いました
右が2012年の冬につけられたもの。左がこれから付けるもの。
こうみると可愛いですね
本日はそんな杉玉の付け替え方をご紹介したいと思います
①去年の杉玉を外します。
※乾燥した杉は刺さると痛いため、顔に当たらないよう気を付けてください。
②杉玉につく紐を取ります。
※杜氏の指先がきれいすぎて白飛びしてしまうことに気を付けながら撮影を行ってください。
③新しい杉玉の紐を付けます。
※特別な結び方があります。企業秘密・・・と言いたいところですが、
早すぎて見きれなかったためご説明が出来ないだけですm(_ _)m
④よいしょ!
※見た目によらずなかなかの重量があります。
足腰をしっかり鍛えてから持ち上げてください。
⑤もとあった場所にひっかけます。
⑥ひっかけます。
⑦ひっかかっていることを確認します。
⑧以上です!でき上がり
杉玉は新酒が出来たお知らせ。
茶色く変化していくとお酒がだんだんと熟成されていると言う目印になります
昔々、杜氏さんが丹波より中野に来てくださっていた頃は、
春前に杉玉が茶色くなりかけているのを見て、
「もうすぐ家に帰るんだなぁ...」としみじみされていたそうです。。。
普段は飾りのようにさりげなく、さりげなく、吊り下げられている杉玉ですが、
見る人によっていろんな想いを伝えてくれる、大きな存在なんだなぁ。。。
と感じました
2013年11月25日
山田錦にゅうかいたしました。
どどーん!
河嶋杜氏が持っているのは、和歌山県産の山田錦です。
農家の方より今年の物をいただきました
酒造りに適している米として作っていただいておりますので、
私たちが普段食べる物よりかなり背が高い
倍近くの高さがあります。
先の方はこのような感じ。
このもみがらを取り、精米し、美味しいお酒の素材となっていきます
観光案内にてお客様に見ていただけますよう、
ご用意しておりますので、
お越しいただきました際にはぜひ背比べをしてみてください
河嶋杜氏が持っているのは、和歌山県産の山田錦です。
農家の方より今年の物をいただきました
酒造りに適している米として作っていただいておりますので、
私たちが普段食べる物よりかなり背が高い
倍近くの高さがあります。
先の方はこのような感じ。
このもみがらを取り、精米し、美味しいお酒の素材となっていきます
観光案内にてお客様に見ていただけますよう、
ご用意しておりますので、
お越しいただきました際にはぜひ背比べをしてみてください
2013年11月19日
生誕101年
11月19日は中野BCの創業者 中野 利生の101回目の生誕日です。
全体朝礼と言うことで社員全員が集まり、
社長 中野 幸生より、過去に残した創業者の言葉をお話しいただきました。
1975年頃に商工会議所にて発行された資料のコラムに掲載していただき、
弊社の山あり谷ありな歴史について書かれています。
少し長いですが、よろしければ最後までお付き合いください。
==================
「終戦が私の転機」
終戦当時、私方は醤油の醸造をしていた。
といっても僅か五十八坪の狭い土地いっぱいに建物を建てたもので、醤油の狭さをかこち(感じ)ながらも、土地そのものが狭いためにどうしようもなかった。
戦前県下に醤油生産家が百五十三件あったが、その中でも一番小さかったのではないだろうか。
戦時中は資材が不足し、あっても軍需優先であって、拡張しようにも拡張できず、終戦の詔勅が出され、長い間続いた灯火管制も解かれて、全く久々に明るい夜を迎えられるようになると同時に、工場敷地を何とか広くしなければと言う考え方を早速実行に移すことにした。
復興は何と言っても食生活である。
食べるに困窮し調味料一つにもこと欠き、平和が訪れても人の心は暗胆として食べるために殺伐としていた。そうした世相をやわらげるためにも何とかしなければと言う心意気だった。
二十年秋、新しいところに二千坪の土地を確保し、入手難の建築資材確保に奔走したのち、翌年、三百八十五坪の第一期工事の醤油生産工場が完成、醤油生産を開始した。
といっても当時は醤油原料が配給制で、組合からの配給だけでは足りず、各家庭にアメリカからの食糧として配給された大豆粕の粉を委託加工することにして広く原料を集め、増石することに奔走した。
かくして漸く生産が軌道に乗りかけてきたと喜んだのもつかの間、同年十二月二十日に襲来した南海大地震による大津波をまともに受け、保管してあった原料は全部駄目になり、設備も大きな影響を受けて、醤油生産は全滅の悲惨な状態になった。
空襲を免れながらこのような天災を受けるとはと泣きたいような気持になった。
これで砕けてなるかと勇を鼓して総力を結集、復旧に努めた結果二十二年四月に生産が再開できたが、醤油業界の見通しが悪くなったため、二十三年焼酎製造の免許を受けて転換「富士白」焼酎として三年間県下業界の中で敢行の石数をつくるようになった。
戦後の苦難気には焼酎で人生の憂いさを晴らした人も多かったものだ。
しかし焼酎も世相の安定につれてだんだん見通しが悪くなったため、三十三年再び転換を図り清酒「長久」の醸造を始め、現在は生産石数は県下でも最高となり、狭い土地に苦しんだ戦前、戦中の経験から敷地も逐次広げて一万坪あまりを確保して現在に至っている。
平和になったおかげで今日の盛業を見るに至ったことに感謝しつつ今後も優秀な製品を生み出すために、常にたゆまず技術と品質の向上のため、研究と創意工夫を重ねて、社会のために尽力したいと考えている。
↑昭和24年春、創業者中野利生が焼酎造りに乗り出したころ、会社の名前は「中野醤油醸造工場」と呼んでいました。
==================
空襲に、、、天災に、、、
とても大きな山や谷があった時代。
私たちはそんな時代を乗り越えて、なお進み続ける『 中野BC 』と言う会社を、
支える一員として、これからも一生懸命頑張りたいと感じる瞬間でした。
そしてたくさんのお客様に喜んでいただける、優秀な製品を生み出し続けたいと思いますので、
今後ともよろしくお願いいたします。
全体朝礼と言うことで社員全員が集まり、
社長 中野 幸生より、過去に残した創業者の言葉をお話しいただきました。
1975年頃に商工会議所にて発行された資料のコラムに掲載していただき、
弊社の山あり谷ありな歴史について書かれています。
少し長いですが、よろしければ最後までお付き合いください。
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「終戦が私の転機」
終戦当時、私方は醤油の醸造をしていた。
といっても僅か五十八坪の狭い土地いっぱいに建物を建てたもので、醤油の狭さをかこち(感じ)ながらも、土地そのものが狭いためにどうしようもなかった。
戦前県下に醤油生産家が百五十三件あったが、その中でも一番小さかったのではないだろうか。
戦時中は資材が不足し、あっても軍需優先であって、拡張しようにも拡張できず、終戦の詔勅が出され、長い間続いた灯火管制も解かれて、全く久々に明るい夜を迎えられるようになると同時に、工場敷地を何とか広くしなければと言う考え方を早速実行に移すことにした。
復興は何と言っても食生活である。
食べるに困窮し調味料一つにもこと欠き、平和が訪れても人の心は暗胆として食べるために殺伐としていた。そうした世相をやわらげるためにも何とかしなければと言う心意気だった。
二十年秋、新しいところに二千坪の土地を確保し、入手難の建築資材確保に奔走したのち、翌年、三百八十五坪の第一期工事の醤油生産工場が完成、醤油生産を開始した。
といっても当時は醤油原料が配給制で、組合からの配給だけでは足りず、各家庭にアメリカからの食糧として配給された大豆粕の粉を委託加工することにして広く原料を集め、増石することに奔走した。
かくして漸く生産が軌道に乗りかけてきたと喜んだのもつかの間、同年十二月二十日に襲来した南海大地震による大津波をまともに受け、保管してあった原料は全部駄目になり、設備も大きな影響を受けて、醤油生産は全滅の悲惨な状態になった。
空襲を免れながらこのような天災を受けるとはと泣きたいような気持になった。
これで砕けてなるかと勇を鼓して総力を結集、復旧に努めた結果二十二年四月に生産が再開できたが、醤油業界の見通しが悪くなったため、二十三年焼酎製造の免許を受けて転換「富士白」焼酎として三年間県下業界の中で敢行の石数をつくるようになった。
戦後の苦難気には焼酎で人生の憂いさを晴らした人も多かったものだ。
しかし焼酎も世相の安定につれてだんだん見通しが悪くなったため、三十三年再び転換を図り清酒「長久」の醸造を始め、現在は生産石数は県下でも最高となり、狭い土地に苦しんだ戦前、戦中の経験から敷地も逐次広げて一万坪あまりを確保して現在に至っている。
平和になったおかげで今日の盛業を見るに至ったことに感謝しつつ今後も優秀な製品を生み出すために、常にたゆまず技術と品質の向上のため、研究と創意工夫を重ねて、社会のために尽力したいと考えている。
↑昭和24年春、創業者中野利生が焼酎造りに乗り出したころ、会社の名前は「中野醤油醸造工場」と呼んでいました。
==================
空襲に、、、天災に、、、
とても大きな山や谷があった時代。
私たちはそんな時代を乗り越えて、なお進み続ける『 中野BC 』と言う会社を、
支える一員として、これからも一生懸命頑張りたいと感じる瞬間でした。
そしてたくさんのお客様に喜んでいただける、優秀な製品を生み出し続けたいと思いますので、
今後ともよろしくお願いいたします。